札幌のエフェクターボード製作屋、ヘルニアエフェクトボードデザイン根尾です。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
昨年末、忘年会に向かう途中で突如体調が急激に悪くなり、顔見せ程度で退席、帰宅後ひたすら寝込むという大失態でした。実家にも帰らず、年明けもすっきりせず。
お酒も飲まずのまったくお正月感のないスタートでした。まいったまいった。
そんなこんなで頭朦朧の中、今年最初の記事はどうしようかなーと考えておりましたが、きちんと自己紹介を書いたことがない気がしておりましたので今回はそんなお話を。
北海道札幌市生まれの私は高校を卒業すると音楽の専門学校へ行くためにすぐに東京へ上京しました。
先のわからぬ進路に学費を出してもらうのは嫌だと自分で働きながら住まい、学費をペイできる新聞奨学生という制度を利用しての上京です。
『新宿駅から原町交差点と言えばわかる』、と言われていたので駅からタクシーで住む街に到着。
降りるとひたすら甘い匂い。春先の東京上京の記憶とセットになっている沈丁花の匂いは新品の Gibson の箱の中の匂いと同じなんですよね。アメリカンミステリー。
着いて早々、午前 2:30 起き、夜遅いんだか朝早いんだかよくわからない時間に下宿先であるお寺の管理人さんの家の 2 階から真っ暗なお墓を横目に出勤。
朝刊 350 部とスポーツ新聞、夕刊は部数忘れましたが、それよりちょっと少ないくらい。
曜日別で特殊新聞もあり、10 回建てのマンションで特殊持ち忘れたら無言の悲鳴。
土日は勧誘、月末には集金、高校出たて、実家出たての私には超ハードで。
朝刊終わって帰るのが 7:00 過ぎくらい、学校は午前中で終わり。
昼過ぎに帰って少し休む、またはコインランドリーで夕刊、それが終わったら銭湯行って寝ての毎日。
一週間できたら一ヶ月、一ヶ月できたら三ヶ月、三ヶ月できたら半年できる、と念仏のように繰り返し、なんとか慣れたものでしたが、慣れるのは新聞配達業務で学校との両立は当時の私には難しく、人生初の大きな挫折、一年で辞める選択をするわけです。
そうしてなんとか一年を過ぎた頃、私の担当地区だった 8 区の引き継ぎとして鳥取県から上京してきてくれたのが山脇 オサム 大先生なわけですね。この時、1999年 3月。
いろんなところでかかっていた椎名林檎の無罪モラトリアムが出たばかりの頃です。
4月半ばには引き継ぎを終えて私は札幌へ帰ったわけですが、この短期間でも濃厚で妙に気が合ったと言いますか、インパクト大な人、として記憶に残り続けるわけです。
みなさんもギターのレシピの動画で観ているとおり、あのまんま、と言いますかただただナイスガイ、フレンドリー・ナイスガイっていう印象で。
札幌に帰った私はすぐにバイクの免許を取り、念願のバイクに乗ることになりますが、早々に車に突っ込まれ人生初の骨折、入院、手術と、できればしない方が良いような経験も増えていきますが、退院後のリハビリ生活の中、街中を歩いていた時にアルバイト募集の張り紙を見つけ、後に 10 年以上務めることになる楽器店での採用が決まります。
この時、1999年11月。
少し慣れた一ヶ月後、多忙な時期に金属を抜く手術での入院がすでに決まっていたので面接時に伝えておりましたが、よく採用してくれたもんだなーと今でも思います。
2 人同時採用されましたが、私が戻った時にはその人はもういなく。
以降、新しい人は数年間入ってこず、入ってきても辞めての繰り返しで長い間毎朝の掃除担当でもありました。整理整頓、掃除好きなので苦はありませんでしたが。
主に店頭接客が中心でしたが、通信販売もありました。この頃はまだ電話もしくは FAX で。
当時の店長がパソコンに強く、数年後にインターネット事業部を立ち上げネット販売が始まります。
楽器のネット販売は日本初ということもあり発注が爆発。私はその担当になりました。
次から次へと入る注文対応でメーカー在庫確認、決済処理、発注、検品、梱包、出荷、という毎日。
検品では必ず状態確認、動作チェックをするため色々な機材に実際にふれることができました。
現在のようにネットですぐに音が聴ける時代ではありませんでしたので、店頭では扱わないような製品も現物が見れる、聴ける、当時は本当に貴重な体験で。
年間出荷数 1,000 件は超えていたのでどんなモノでも綺麗に安全に梱包できるというのも今に役立っています。
平日はひたすら在庫確認の電話をしていたのでメーカーさんが出張で来てくれると必ず話しかけてくれることもあって、いろいろな方と知り合うこともできました。
後に働く楽器店が変わっても取引先、メーカーさんは一緒ですからね。
スタッフ的には一番下っ端なのに売上は全店一位、アルバイトから後に正社員、店舗責任者となったのが最初に勤務した楽器店での出来事です。
この辺りの経験が現在の根っこになっています。
楽器店に在籍していると、札幌にいながら東京で知り合った専門学校の同級生が偶然来店し再会できたり、東京の時の新聞店の隣が偶然メーカーさんで担当者の方から今現在も新聞店のその後のお話を聞けたり、偶然ラッキーもありました。
東京出張時、最初の楽器店の事務所が 8 区の果てが見える位置だった、って偶然もありました。
同じことを続けているといいことがあるものだと思います。
楽器店時代のお話は実に長いのでひとまずこの辺で。
そして時はだいぶ流れて facebook に見たことのある名前が流れてきます。
山脇オサム 大先生。
自分からは滅多にアクション起こしませんが、あまりに懐かしくメッセージを送信。返信、来ず(笑)
私も経験ありますが、つながっていないとメールが見れない、通知が来ないみたいな感じで、メッセージよりも先に申請すればよかったんでしょうね。
突然の返信は数年後だったと思うのですが、なんとか facebook で再会できたわけですね。
この時、16,7年ぶりくらいに電話で話した時もブランクはまったく感じず、ギターのレシピをやっているのでなんか一緒にやれたらいいですね、というようなことを先週まで会っていたかのようなノリで普通に話してくれる、10 代で出会い、20 代を知らずともあの頃のまんま、ってな感じで。
その、なんか一緒にやれたらいいですね、が最初にカタチになったのがメールマガジン書きませんか?というご依頼でした。この時、2018年4月。
気づけばもう 7 年前、7 年も経っているのかってことにもびっくりですが、この『なんか一緒にやれたらいいですね』が今年またひとつ、増えそうです。
新聞奨学生というのは 2 日目でマジで帰りたい、って思うほどに本当に大変なものでしたが、なんとか学費の借金残さず帰るためにがんばったご褒美が彼との出会いだったと思っています。
そしてその時は大きな挫折と思った辞める決断もそれをしなければ出会うことはなかったかもしれない、このメルマガも私が書くことはなかったかもしれない。
となると現在のエフェクターボード製作もどっかで諦めていたかもしれないんですよね。
人生、何が起こるかわからないもので、自分はギリギリが多くとも結果ラッキーだと思っています。日々感謝。
ということでみなさま、今年もよろしくお願いいたします。
★ 2022年に製作させていただきましたギタリスト高橋 克 様のエフェクターボードを 「こちら祇園二丁目濱田製作所 様」にてご紹介いただきました。ありがとうございます。HELL NEAR EFFECT BOARD DESIGN 製のエフェクターボードの音がご本人様の演奏で聴けます。
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